お気楽傍観者による安易な教育論
まずこの本の後半を中心とする日本手話礼賛議論については、「特集・ろう文化」(現代思想)(特に新井孝昭「言語学エリート主義を問う」あたり)でも読む方が、書き手のバランスが一定考えられている分、この本よりは参考になるということに尽きる。
さて、この本の最大の問題は、手話による教育(バイリンガル教育)の主張である。
そもそも教育論をするのであれば、子供の発達段階に応じた慎重な検討が必須である。仮に「この本の44ページ以下で出ているような聴覚活用のみでは学年対応の教育が無理な生徒たちには大いに手話の活用を」という主張であればまだしも、どのようなケースに対して手話を本格的に導入すべきかが全く検討されていない点も非科学的であるし、手話法の成功例と聴覚口話法の非成功例を比較している方法論もお粗末。
論より証拠、著者が推薦するようなバイリンガル教育を実践する機関で学ぶ小学校中・高学年の子供たちの多くが「ボールをける」という書記日本語すら理解できないことが07年夏のテレビ番組で放映されており、書記日本語が身につかなくても成人後問題なく生活できるというのであれば別だが、子供たちこそいい迷惑である。(小学校高学年以降に書記日本語力が飛躍的に伸びると考えている教育関係者はいないと思う。)
この本のような主張が教育現場でほとんど賛同を得られないのは、日本語・それと表裏をなす学力をしっかりつけさせたいという先生方の真摯な実践、検証ゆえであり、「聴覚障害児を聞こえる子に近づけたいがため」との著者のお気楽な見方は的外れである。
人間(特に少数者)にとっての言語・コミュニティの持つ意味の大きさと教育論は別の次元の問題であり、この本の粗雑な主張は問題外。(いつも思うのだが、著者の如きバイリンガル教育推進派の主張は、「日本手話による教育で書記日本語も身につくはずだ」というのか、「書記日本語が身につくかどうかは二の次でまず日本手話を身につけさせることが重要」というのか、一体どちらなのか。いやしくも教育を語る以上、もし前者なら日本語獲得のデータを誠実に提示すべきである。もし後者なら子供の聴覚障害がわかったばかりで混乱しているような親に対しても、バイリンガル教育では保護者が望むような書記日本語力はまず身につかないことを正直にインフォームした上で、手話モノリンガルでよいのだとの主張を堂々とすればよい。)
本来ならバイリンガル教育の可能性が未知数であった時期に書かれていることも考慮する必要があるが、著者が基本的立場を変えておらず、その影響力も大きいと思われることから、あえて今さら取り上げた上、このようなレビューとした。
人間にとって言語とは何か
自らの思いを、手指と顔の動きで自由自在に表現、伝達する人たちがいる。 彼らはまた、それを思考の道具としても用いることができる。 「彼ら」とは「ろう者」のことであり、「それ」とは手話のことである。手話はれっきとした「言語」である。 独自の文法ももっており、その獲得に特別な訓練も要しない。 ろう者にとっての言語は手話であり、 彼らにとって音声言語は言わば外国語に過ぎないのである。 しかしながら聴覚をもつ者(聴者)は、 ろう者の言語である手話を「単なる身振り」とみなした。 社会的マジョリティーである聴者は、ろう者から手話を奪い、 外国語に過ぎない(しかもよく聞こえない)音声言語のみを覚えることを強いてきた。 これは過去の話ではない。今現在の話である。 想像して頂きたい。 すりガラス越しに、自らの母語を一切用いずに、手話を習えと言われたら。 しかも、すりガラス越しの手話による生活を一生涯続けろと言われたら…。 手話と出会った筆者の衝撃、動揺、聴者である自分への歯がゆさ… それらをあたかも追体験するような文章構成になっています。 読者は選ばないと思います。あえて言うなら、全ての聴者の皆様へ。
人間にとって言語とは何か
自らの思いを、手指と顔の動きで自由自在に表現、伝達する人たちがいる。 彼らはまた、それを思考の道具としても用いることができる。 「彼ら」とは「ろう者」のことであり、「それ」とは手話のことである。 手話はれっきとした「言語」である。 独自の文法ももっており、その獲得に特別な訓練も要しない。 ろう者にとっての言語は手話であり、 彼らにとって音声言語は言わば外国語に過ぎないのである。 しかしながら聴覚をもつ者(聴者)は、 ろう者の言語である手話を「単なる身振り」とみなした。 社会的マジョリティーである聴者は、ろう者から手話を奪い、 外国語に過ぎない(しかもよく聞こえない)音声言語のみを覚えることを強いてきた。 これは過去の話ではない。今現在の話である。 想像して頂きたい。 すりガラス越しに、自らの母語を一切用いずに手話を習えと言われたら。 しかも、すりガラス越しの手話のみによる一生を送れと言われたら…。 手話と出会った筆者の衝撃、動揺、聴者である自分への歯がゆさ… それらをあたかも追体験するような文章構成になっています。 読者は選ばないと思います。あえて言うなら、全ての聴者の皆様へ。
きっかけとして・・・
聴覚障害に関わる者にとっては既視感を誘われる本である。話の流れをおおまかに紹介すると「日本の聾学校は手話を禁じる暗黒の世界だ」→「手話は独立した言語であることが最近わかった」→「ネイティブ・サイナーのほうが教科学力も高いのは常識だ」→「日本語対応手話は手話ではない」→「これまで聴者はいかにろう者について無理解であったか、恥じるべきだ」→「ろう文化は素晴らしい世界なのだ」。 これは「ろう文化宣言」以降に発表されたこの種の本のほとんどに共通の展開ではないだろうか。 誤解無いように言い添えておくが、この本に書かれた事の90%以上は事実である。問題なのは、事実を並べれば「全体図が見える」わけではないという事だ。注意深く選び抜かれた事実のみを並べるの!は、政治運動のイロハのイである。おそらく著者自身、ある政治集団の掌の上で見事に踊らされたのであろう。 ろう文化の世界は確かに衝撃的である。しかしジャーナリストたるもの、その衝撃の中でなお一定の冷静さを保つべきであり、その点で著者は少々熱くなりすぎたようだ。 この本は聴覚障害の世界を知るきっかけとしては良いと思う。ただしこの本に書かれた世界だけが聴覚障害の全てだとは考えない方が良い。
晶文社
ぼくたちの言葉を奪わないで!―ろう児の人権宣言 日本手話とろう文化―ろう者はストレンジャー はじめての手話―初歩からやさしく学べる手話の本 ろう文化 手話でいこう―ろう者の言い分 聴者のホンネ
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